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 体験談

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Iさん 「想い出の大菩薩峠へ」

 私たちのグループは4人で、彼は一人でした。他に3・4人のグループが2つ、夕食の時、Yちゃんが小屋の入り口付近に一人でおにぎりを食べていた彼のところへ寄って、御一緒にどうですか?と声をかけたそうです。それが彼がYちゃんに惚れてしまった初めの一言だったそうです」

 これが私たちの結婚式での友人のスピーチでした。私たちは大菩薩峠の富士見山荘で知り合いました。出会いから30年、夫は告知の後も、「生きたい、生きて仕事がしたいから最後の一滴まで点滴は止めないでくれ」そう言い続けました。私が何回か勧めたホスピスへの転院も、彼の生への強い意思の前では、何の意味も持ちませんでした。下の子がまだ小3でしたし、家族の時間を有意義に過ごしたいと願いました。そして何より夫を「痛み」から解放してあげたかった。一年余りの闘病の後夫が亡くなったとき、遺骨を少しだけ手元に残し、いつの日か二人が出会ったというより、夫が50回以上も行ったという大菩薩峠の山小屋の近くに散骨してあげようと思っていました。これは葬儀の後、自宅に見えてくださった山小屋の若主人にも了解を得ていました。

 あれから三年、こんな風にして私の手の届くところに絶好の機会を得ようとは思いませんでした。思いがけなく、青空の会のレクリエーションで大菩薩行きを企画してくれました。でもなにせ8月は仕事が忙しく、休みが思うようになりませんでしたので参加を見合わせていました。出発前日の午後、上司のOKが出て、まず山小屋に一名の追加をしてから、幹事の川手さんに連絡を入れました。さあそれからの川手さんの手配はとても大変だったようです。そんなことはつゆしらず、私はただ行けることになったのをとても喜んで、お線香と夫の遺骨を忘れないよう、リュックの奥に詰めました。
 当日は天候も快晴で、男性6名、女性5名の11名での山行きでした。塩山から上日川峠までタクシーで行って、そこで降り歩き始めました。毎日車通勤の日々で、足元はとても不安でしたが、いざ山に入ると体がとても軽く感じられ、スキップでもしたい気持ちでした。途中、富士見山荘によっていただいて、入り口の富士山がとてもよく見えるところに夫の遺骨を埋めました。そして今日のこの機会をこんな形で与えてもらったことをとても感謝して、手を合わせました。それは私の中でずっと張り詰めていたものが、スーっと抜けていく瞬間でした。

 その後、山道をゆっくり登り始め、頂上近くの介山荘で昼食をとって(この時食べたイチゴのかき氷は最高でした)たくさんの高山植物を横目で見ながら、2057mの大菩薩嶺を経て、丸川荘に宿をとりました。この日はちょうど私の50歳の誕生日でした。そのことを山小屋の御主人に話すと、急きょ御主人が手作りのケーキを焼いてくださって、おいしい夕食(山小屋の食事とは思えない!)の後、コーヒー付きで仲間の皆さんに祝っていただきました。

 山小屋の夜は早く、お布団に入っていると、中野さんの「天の川が見えるよ」の声でみんなで外に出ました。満点の夜空に天の川がはっきりと見え、流れ星がいくつも走り、また夜を徹しての富士登山者達の灯りが遠くに見えました。まるで銀河鉄道の夜のようなイメージでした。翌朝(4:30起き)は、前日見られなかった富士山がくっきりと姿を現し、また稜線の間から少しずつ登ってくる御来光も見ることができました。朝食(これまたおいしい食事!)をいただいて、御主人自慢のコーヒーをゆっくり飲んで丸川荘を後にしました。鶏冠山に登って、裂石に降り、タクシーで塩山に戻ってきました。他の仲間は塩山でお風呂に入ってからの帰宅ということでしたが、私は三人の子供を残しての一泊でしたので、温泉はパスして帰りました。けれど山で得る全てのものを手にしての帰宅でしたので大満足でした。

 今思うと、この山行きの案を出してくださったのは、新潟から参加の番場さんだったようですが、すべては私のために企画されたように思え(うぬぼれが激しくごめんなさい)、この山行きに便乗して背負っていた大きな荷物をやっとおろすことができた気持ちです。丸川荘の御主人の朴訥としたなんともいえないあったかいものが、いつまでも心に残っている山行きでした。ありがとうございました。
                    (2000・8・5,6登山、9・10記)

 

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