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どんぐり

 体験談

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Y.Hさん 「意識的に心のケアを」

 N市から参りましたYと申します。よろしくお願いします。私の妻は肺腺がんでした。肺がんの恐さは転移が早いことです。決着が早いという感じがしていたのですが、十六年間の闘病でした。十年経てばもう命拾いをしたと思っておりましたところが、残念ながら虚しく亡くなりました。一年四カ月経ちまして、少し落ち着いたという感じがしております。その辺のお話をしてから、いま何を考えているかということをお話をさせていただきます。

<十年経ってからの転移>
 私の妻は、発病の時ちょうど四十二歳でした。子供は年子の女の子が三人、長女が高校へ入学する年でした。職場の検診で…前年に発見されなかったのが、一九八六年、右上葉の肺がんが見つかりました。肺がんをご存知の方は、縦隔リンパ節といって他の臓器と隣り合っている所のリンパ節に転移があると、ほぼ間違いなくどこかへ転移していると言われています。正に縦隔リンパ節に転移をしておりましたので、二年待たず一九八八年、左の肋骨に転移をしました。分かった時に、ああよかった、と実は思いました。脳に転移するか骨に転移するのが一番ケースが多いものですから、肋骨だから切ればいいわと思ったものです。肋骨の切除後は若干の化学療法をして状況を見守ってきました。
 それから約十年間、なんともなく過ごすことができて、これで助かったぞと思っておりました。その間、妻の方もいろいろなお付き合いが始まったり、どんぐりの会のお世話にもなったりしてきました。
 ところが一九九七年に今度は右の肺から左の肺へ転移しておりまして、それが見つかりました。小さな肺がんのいくつかの転移ですから、これは化学療法しか治療法がないということで、でも県には化学療法の専門医がいないということで、千葉県柏市の国立がんセンター東病院に行くことになりました。大変にいろいろと化学療法の薬を使いました。おそらく日本で現在使える薬はすべて使ったのですね。最近問題になっているイレッサというのも、次の回で使ってみようかなという手前で亡くなってしまいました。二〇〇一年十月、五十九歳でした。

<徹底的に行った化学療法>
 彼女の場合、どう言えばいいでしょうか、いくつかの特徴があるかと思います。一つはともかく三人の子育てと仕事です。まだ中学生でしたから、今考えても大変な日常だったと思います。仕事もかなり大事なポジションにいたものですから、それを精一杯やった、化学療法が終ったら、また出勤という繰り返しでした。一九九八年退職するまで百二十%くらいやっただろうと思います。しかし、こんな中でこそ「人はやさしくなれる」「人の役に立つことは自分にも跳ね返ってくる」ことを、彼女も私も経験いたしました。
 もう一つは、化学療法です。徹底的にやりました。その当時シスプラチンという肺ガンの治療薬としては革命的だと言われていたものを、長野の医者は三クールやろうと言っていたのを、当然転移はあるものと予想していたものですから、これでもかこれでもかと徹底的に九クールもやりました。あれはかなりきつい薬ですね、吐き気がどんどん出て、薬の名前を聞いただけでも吐いてしまうような薬でした。ともかくもう一回がんばろう、今年もう一クールやろうじゃないかと言って、それではやるかと始めても、そのうちにこんな薬をやるなら死んだ方がましだ、というような状況があったりしました。ある意味では激励しながら、騙しながら、慰めながら、という感じでやってきました。そのきつい化学療法をやったからこそ、その後十年間再発もせずに転移もせずに命が伸びたのだろうと今では思っています。
 三年前の二〇〇〇年に腹水が溜まり始めて、これはそろそろ無理だろうと、がんセンターでもそんな話がありまして、それでは自宅へ帰ろうということで、帰ってきました。ガン特有の痛みがあった場合、自宅でケアができるかどうかちょっと自信がなかったのですけれども、幸いにその方はなんともなかったです。

<乳がんの患者の会に入って…>
 具合が悪くなって三カ月目ぐらいでしょうか、次女が結婚披露宴をやるという話が持ち上がって、では急いでやろうということになりました。結婚式はやらずに、結婚披露宴だけ、ともかく妻も参加して済ませることができました。
 その翌週に、志賀高原へ連れていけと言いまして、もう歩けなかったのですが、志賀高原へ行ってきました。その後くらいから、起きられなくなってきました。亡くなる日は、やはり私も分かりました。今晩はちょっと危ないぞと、案の定、座椅子にもたれてベッドの横にいたのですけれど、ウトウトして気がついたら亡くなっていました。朝方、そういう感じで亡くなりました。
 そういった意味では、かなりしっかり闘病はしてきたという感じはするのですね。地元の市民病院にも行っていました。そこの乳がんの患者の会というのがありまして、乳がんの患者の会にどうして肺がんのあなたがいるんだと、笑ったのですけれども、かなりいろんな患者さんをお見舞いに行ったり激励に行ったりしていました。やはり自分よりももっともっと状況の悪い人がいるというのは、勇気付けられるんですね。だから、どこかのご家族の方が、妻のことを見て後光がさしているなんて表現された方がおられました。妻にとっても、揺れ動く自分自身の心のケアになることを体感していた事もあっただろうと思います。そんなことを十数年間続けてきました。

<悩んだ末の告知 >
 妻の話はそれくらいにしまして、さて、亡くなってからどうしたものかということですが、これが私、今日お話したい中心点です。やはり思いっきり心のケアをする必要があるだろうと、自分自身で思っています。娘達は北海道、東京、三重県におりま すので、私、一人で暮らしているのですけれど、どういうふうに心のケアをすればい いかということを、以前の経験でいろいろ考えました。
 以前の経験というのは、妻にあなたは肺がんですよと告知する時、十何年前というのはがんの告知というのはほとんどなされていない時期でしたので、何日も悩んだの です。
私たち夫婦は絶対隠し事はしないということだけは徹底しておりました。医師は、話をすると言いながらなかなかやらない、そんなことではあの強い抗がん剤に耐えるこ とは絶対にできない、治療内容を本人が理解して立ち向かう気になってくれることが どうしても必要だ、これは話をしなければいけないと強く思いました。告知後の妻がどんな精神状態に陥り、それを乗り越えていくにはどんな方法と支援が出来るかを必死で探しだし、本人に正確に正直に話をしました。予期したとおり晴天のへきれきで、彼女は大変なショックでした。

<告知の時に経験したうつ症状を覚悟 >
 その話をする時に、私もやはり自分で自分の心の状況が分かるのです。完全にこれはうつ症状だなと、感じました。ただ、ともかく妻を助けなければいけないという一心でしたので、何も分からないまま、医学書を読みあさったのですね。しかし、医学書はどこに売っているかさえも分からないのです。先日のどんぐりの会のシンポジウムで講師をされた柳田邦男さんの『がん回廊の炎』、ガンセンターができる頃の本があるのですけれど、大変役に立ちました。本の内容自体もそうですが、後ろに付いている参考文献が大変役に立って、ああ、こういう本があるのだ、こういう新聞があるのだということに気付いて、片っ端から読みあさったのです。おそらく受験勉強以上に勉強をしました。本当に時間がおしいという感じで勉強をしましたけれど、ともかく完全に自分はうつ症状だとその時分かりました。
 私は農業技術者でして農家の人に会うのが商売なのですが、人に会うのがいやになる、職場の人は仕方ないから会っているのですけれど、新しい人とか、たまにしかお目にかからない方に、なにしろ会って話をするのがいやでいやで、完全にうつ症状の状況でした。
 その時、そういう経験をしておりましたので、おそらく妻が亡くなっても似たような症状を覚悟しなければいけないだろうと思っていました。それで、いくつか積極的になんとかしようということを考えました。

<追悼集作成が心の癒しの出発点>
 一番最初にやりましたのは、妻のいくつかの手記が残っておりましたので、それをまとめて追悼文集を出そうと思ったのです。ところが、周りの人から私たちにも書かせて下さいということで、結局本人の文章だけではなくて、友人知人の文章も入れてこういう本を作りました。
 これをともかく編集しながら、私のコメントを注釈代わりにつける、これはものすごく心の癒しになりました。この本は、私の心の癒しの出発点であった、というふうに思っています。
 ありがたかったことに、妻は、たとえば一番最初、こんなのに出しているのです。コピーしか残っていなのですけれど、県が募集した「働く女性の体験記」というのに応募して、最優秀賞をもらいました。ここに持ち出してきたのですけれど、なんで最優秀賞なのかといったら、おそらく、保育所がないといえば皆で保育所作りを始めるとか、児童館がなければ児童館をなんとかしなければいけないと、そういう子育ての運動を一生懸命やる、それも働きながらのものです。そして肺がんだと書いたものですから、おそらく決め手は肺がんだろうと、本人は言っておりました。
 これは簡保が百年記念に募集した時に応募して、このような文章も出していましたし、また、雑誌に投稿した文章もありました。ご存知と思いますが、どんぐりの会や青空の会の方がインタビューを受けて出版された小笠原信之さんの『がんを生きる人々』という本にも登場しました。

<人を励まして逆に自分が励まされる>
 このようなものが残っていたものですから、それらをまとめてともかく早く出そうと、徹夜をしながらまとめて行ったのですね。この本は、妻が亡くなったことを友人に連絡をするつもりのご挨拶のつもりで考え、作ったものでした。
 けれども、市のタウン紙に紹介されることになりました。市立病院の患者の会の人たちに何冊かお届けしたら、それがどうも回って行ったようでした。タウン紙に掲載されると、急に、私にも送ってくださいというのがワーと来ました。三十数部しか残っていなかったのが、あっという間に無くなりました。その人たち、お手紙いただいたり電話をいただいた中で、やはり一番多かったのは、がん患者御自身もおられましたけれども、がんで亡くされた遺族の方でした。
 かなりやはり皆さん参っているというのを感じました。何人かの人には、まだいまだにお顔も見たこともないのですけれど、お手紙のやり取りやら、やっております。人を励まして、逆に自分が励まされているという感じですね。そんなことを今続けてきています。
 お話をしていて、一番多いのは引きこもりです。男性の場合は酒でも飲んで、私もだいぶ酒を飲みながらこんなのをまとめてきたのですけれども…。それよりも、やはり引きこもり、誰とも会いたくない、外へも出たくない…。これはお分かりだと思うのですが、私なんかも、隣の部屋に行くのもいやな時期が少しありました。一部屋にいて、そこでご飯も食べたり、ベッドで寝たりして、隣の部屋に行くのもいやだという感じの時期がありました。それは自分で分かるのですね、これはまずいなと…。ただ私はまだ現役で働いているものですから、社会生活も送らなければいけない、なんとか、そういった意味でいろんな刺激はあるのですけれども、それでも精神的な引きこもりというのはありますね。それをどう脱却するか、かなり難しいのですが、ともかく外にでるより仕様がない、という感じが今しております。

<外に出ることを大切に−再生に向かってがんばっていきたい>
 私、実は定年にはまだ一年残っているのですが、この三月で退職をします。友人たちが何を言うかと思ったら、奥さんが亡くなったんでやはり一年早く退職するのだろうと。実はそれはまったく違うのです。本当はもっと早く退職して、妻と一緒にいろんなことをやって行きたかったのです。妻が亡くなり、五十九歳まで働くことになったというのが、本当のところです。
 そして、やはり外へ出るということを大切にしようと思って今まで来ました。そんなことで、自分の心のケアというのは大変だけれど、やっていかなければいけないと思います。がん患者の方がたどる同じ平均的な道・精神状況を、遺族の私たちもたどるのだろうと思うのです。
(1)茫然自失、死を認めたくない、
(2)取り返しがつかない気持ちと悲しみ、怒りが押し寄せる、
(3)何もしたくないうつ症状、
そして(4)心のケアと再出発、というものです。
 私も最初はやりばのない気持ちというか、錯綜して、覚悟はしていたけれども、だから、あまりお葬式のことは覚えてないのです。しかし、妻の方はお葬式の用意は全部していてくれて、飾る写真はこれ、葬儀に流すモーツアルトの曲はこのCDに入っているとか、連絡場所はここに、というふうに全部用意してありました。私はそれでだいぶ助かりました。
 そんな状況でもなんとかかんとか少しずつ脱却しながら、引きこもりだけはやはりなんとか脱却したいと思っております。十分心のケアをやっていかないと、周りを見渡すと、そういう方はいっぱいおられます。いつの間にかあの人に会わなくなったよとか、大人にも引きこもりみたいなのがあるというのが、この機会によく分かりました。私自身、新しい再生に向かってがんばっていきたいと思っております。ありがとうございました。                  

 

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