がん患者と家族・遺族の会【どんぐりの会】 トップページ |掲示板 |入会案内

1%の希望が自らの力で達成された時、人生最高の喜びを感じる。
どんぐり

 体験談

<1つ前に戻る体験談トップ

T.Mさん 「子供たちの『お母さんは良くやった』という言葉に救われました」

 よろしくお願いします。いつもの司会の方が気が楽なような、とても緊張しております。去年、「元気の出るお話」を少しお話しさせて頂きましたけれど、もっと詳しく見つめ直して見る良い機会だと思いまして、このお話しを受ける事にしました。

<痛いのを我慢し続けて>
夫は平成十三年六月二十三日に五十七才で亡くなりました。今二年半になります。今年で三回忌も過ぎ、一区切りつきました。
 平成十二年二月、スキルス性胃がんの手術をして胃を全摘しました。最初は初期と言われていましたが、開けてみると胃の壁まで達しており、リンパにも半分転移していました。若い時に十二指腸潰瘍をしてましたので、その影響もあると思います。仕事もサラリーマンで、朝早くて夜遅い仕事で、ストレスが溜まっていたのではないかと思います。十二指腸潰瘍の時、麻酔無しで胃カメラを飲むと言う嫌な思いをしていたので、一年くらい胃の調子が悪いのにどうしても嫌がって胃カメラを飲みませんでした。それで手遅れになったのではないかと思います。
平成十一年の夏には体調がつらくて、胃から戻したりしていました。九月に、最後の海外旅行でシンガポールへ行った時は「男の更年期ってあるのかな」というぐらい、体調が良くないようでした。私がかかりつけのお医者さんに相談しても、夫は「先生にこんな神経質な人に胃カメラを飲めと言うのは奥さんが悪いと言われたので、僕は飲まない」と言っていました。私はひょっとしたら胃がんではと思っていましたけれども、それ以上はもう言えなくて困っている状態でした。

<趣味はバードカービング>
 夫は健康に普段から人一倍気を使っていて、一日三十品目自然食を食べて、歩くのは一万歩とか、体に良いことばかりして、手帳に全部つけていました。余りにも気を使いすぎて、性格も神経質で、ちょっとせっかちだったのでそういうストレスがかえって良くないのではないか、という思いがします。会社や友人にはとても良い人で、家で割合と神経質だったんですよね。
 趣味はバードカービングといって、細かい木彫りの鳥に色を付けていくものです。老後の為の仲間作りもしていました。私はパッチワークをするので、鳥をテーマにした作品を、バードカービングの作品展に一緒に出品したりしていました。鳥という共通の趣味があり、バードウオッチングや旅行へ良く行きました。海外旅行も十年ほど毎年行っていましたので、普通の人が一生分行く以上に早めに行ってしまったと思います。定年後と思っていたら、どこへも行けなかったので、よかったのか悪かったのか・・・、それは良いと思いますけれども、なにか生き急いだ人生だったような気がします。

<受診してすぐに手術>
 平成十二年二月に本人がどうにも体が辛くなって観念して胃カメラを飲みました所、すぐに大きい病院を紹介されました。受診してすぐ入院、そして二月二十五日手術という慌しい事になりました。その時は、相談したのに取り合って頂けなかった主治医のお医者様を恨みましたけれども、結局は胃カメラの病院も手術した病院も紹介して頂きましたし、友人でもありとても良くして頂きました。その事を子供に言いましたら、「人を恨んではいけない」とかえって諭されてしまい、はっと気が付いてもう人は恨まないことにしました。
 手術の後はすぐ歩きだして、食べ物も気を付けて、お見舞いの方にも元気そうに対応していました。全摘ですけれども、思った以上に元気で、かえってその時に頑張りすぎたような感じがしました。会社にも連休明けぐらいに復帰し、週に五日通っていました。それも、いっぺんに頑張りすぎたような気がします。
お弁当は柔らかい物ばかり、暖かいランチジャーに入れて持って行きました。私のパート先に近いので、朝近くまで送って行き、帰りは迎えに行くという状態をしばらく続けていました。でも余り早く仕事に復帰したり、いろいろ頑張りすぎた為か、夏が近づくにつれて体調が悪くなり、だんだん体力が落ちて通えなくなりました。八月に会社を休んで、もうそのまま会社に出ることはありませんでした。

<避暑をかねて北海道旅行>
私も、銀行のロビーのパートをしていましたが、そこの人に「今辞めないと後悔しますよ」という言い方をされたので、すぐその場で「辞めます」と言って辞めてしました。それが七月でしたので、主人が八月に会社を休むくらい具合悪くなったので、かえってそれが良かったと思います。
八月にはお医者様にも、暑いのでどこか涼しい所に転地療養した方が良いと言われ、北海道の友人の宅に五日間行ってみたり、軽井沢の祖母の別荘を借りて三週間行ってみました。最後の北海道旅行は、帯広の友人宅に泊まらせてもらいました。飛行場まで送り迎えもしてもらって、富良野を観てハーブ園に行き、何とか体力は持ってうれしそうにしていました。けれども、後でやっぱり体がつらかったとは言っていました。
私はこの頃、ヘルパー二級の講習を土曜日の週一回受けていて、九月に資格を取りました。そして十月から、週三日ほど、一日一箇所ぐらいの割りで仕事に出ていました。資格を取ったのは、夫の介護が最後まで出来るように勉強しておけば良いかなと思いましたし、それから一つでも資格を取っておけば今後の仕事とか生きがいとかに繋がるのではないかなと思ったからです。
九月にもう夫は食べられなくなって、点滴入院ということで、手術をした病院に入院しました。一ヶ月ぐらい入院していて退院し、十一月には代替医療の病院に入院しました。夫はそこの先生の本を四冊くらい読んでいましたが、、何か気持ち的に受け入れられず、体力もなくなり過ぎていたので、三週間で退院してしまいました。

<「どうして死なせてくれなかったのか」と言われ・・・>
十二月にまた元の病院に三回目の入院をしまして、お正月に帰るとか帰らないとか言っていましたけれども、家には結局戻りませんでした。やはり退院した場合の不安があったのだと思います。年が明けてから二度腸閉塞をしました。ぜんぜん食べられなくなり腸が動かなくなって、腸閉塞を起こし易くなっていました。そのために手術を二回受けて、それでも何とか命は取り留めました。ただ、余りに苦しくて「どうして死なせてくれなかったのか」と言われ、なんとも言えない気分でした。 
麻酔のためかも知れませんが、手術の後三日間ぐらい精神的におかしくなって、点滴を自分で引き抜いたり、暴れたり、そして幻覚を起こして人が変わったりして大変でした。その後もうつ状態になり、精神安定剤とか飲んでいました。
目を離さないようにと看護婦さんに言われていましたが、それにも限りがあって、私も精神的にこの時が一番追い詰められていました。一番つらい時でした。私も病院に通うだけで、食事は全て外食でした。何も作れない状態で、たまに娘が作ってくれたけんちん汁が、うれしくて美味しくてあの味は忘れられません。

<精神的なフォローがあればいいな・・・>
 日本の医療というのは、外国と比べて遅れていると言っては悪いのですが、精神的な面でのケアが少ないという事をすごく感じました。知り合いのお医者様でしたので、普通よりは良くして頂きましたけれども、結局精神科のお医者様に相談しても、薬が出るぐらいでした。カウンセリングは本人が受けたくないということでしたが、もう少し何とかならないものかと思いました。それに、家族には相談する先もないので、これから、もっとそういうのがあればなぁと強く感じました。
病院は治療する所であって、抗癌剤も出来ないと言われましたし、点滴だけぐらいでしたので、三ヶ月過ぎると、退院するように言われました。それでも本人は嫌がり、結局半年近く入っていました。病院から、退院しなければいけないんですときつい言い方で言われました。主人も、もう仕方ないと言うことで退院しました。 
在宅で点滴もしなくてはいけませんので、コーディネーターの方に、往診の先生と訪問看護婦さんを紹介して頂いて家に戻りました。
来て下さったお医者様は、私の今の仕事先でお会いすることがある先生で、とても良いお医者様です。訪問看護婦さんも親身にお話を聞いて頂いて良い方に恵まれたと思います。

<在宅で落ち着いた日々>
全く食べられなく、点滴の針も入らなくなりました。IVH(中心静脈栄養)のために埋め込んだチューブに針を刺してつないぎ、機械で点滴をする、クール宅急便で送ってくる液の中に薬を注射針で入れるなど、看護婦さんがすることを私がするという状態でした。家族は何でも出来るのでそれをしていました。
この経験があるので、ヘルパーの仕事でいろんな大変な方を見るのですけれども、どんな方でもわりあい、大丈夫なので、それは主人のおかげだと思っています。ただヘルパーの出来る事は限りがあって、医療行為は出来ないので、しませんけれど・・・。
最後の在宅は一ヶ月ほどでした。運動もしなければと、本人が、花を見ながら三十分から一時間杖にすがりながら散歩しました。車椅子は絶対いやだと言い、乗りませんでした。ただ花が見いということで、気持ちもすごく落ち着いて「ありがとう」と感謝の気持ちを表してくれたり、一番安定していた時でした。
テレビドラマで見ていますと、がんの方の亡くなる前は少し良くなって、ろうそくの灯が消える前にちょっと明るくなる、そんな感じで、またひょっとしたらこのまま持ち直すのではないかと思いました。

<家族四人で看取り・・・「お父さんはこっちを向いてくれた」>
けれども、様態が急変して一日で悪くなってしまいました。お医者様に来ていただいて、とりあえず今日は検査のために病院に行きましょうと言われました。でもタクシーの普通の座席に座ることが出来ませんので、救急車を呼んで、病院に搬送されました。その途中で意識がなくなり、病院について検査した時もうランドーシスと言って検査数値が全部ダメで、危篤と言われ、びっくりしてしました。ICUで、子供と私とちょうど四人集まって話しかけた時に、看護婦さんは「もう判らないでしょう」と言われたのですが、子供たちは「お父さんはこっちを向いてくれた」と言いました。やはり耳が最後まで残ると言うのは本当だと思います。
私も、薄目を開けて見てくれたような気がします。一晩病院の廊下のソファで過ごしました。長い夜でした。あんなに長い、明けない夜はありませんでした。次の日の朝、夫の弟や、神戸の妹夫婦と一緒に住んでいる私の両親、親戚が来てくれました。先生から病状の説明を聞いて、「長くなりそうだから体を休めないと家族の方も持まちませんよ」と言われました。
それからICUに入りましたらちょうど夫の側に行った時に心電図がスーッと真っ直ぐになっていきました。これ以上治療しても迷惑かけるからと、本人が分かった、そのような感じがしました。私は後悔の念がわいてきて、もっと優しくすれば良かった、精神的に追詰められていたので喧嘩のようにきつい事も散々言いましたし、ただ「ごめんなさい」と謝りました。子供たちが、「お母さんは良くやった」と言ってくれたので救われました。
今でも後悔していますけども、後悔しても仕方ないことはしないで、前向きにエネルギーを仕事などに役立てれば良いかなと思っています。

<崖っぷちに立たされたような感じ> 
どんぐりの会に夫が何とか行ければと思い、まず私が参加しましたが、夫は一度も参加できませんでした。皆さん、どんぐりの会の方は元気ですね。胃の全摘の方でも食べてられるし、何とかお話を聞ければと思い、夫も参加できるかと思いましたが、駄目でした。
青空の会で、アルフォンス・デーケン神父の講演会のお手伝いをする機会があり、グリーフケアや癒しの十二段階とか、デーケン神父の連続講義を受けました。自分の状態が客観的に見られますので、それはとても良い事だと思いました。
夫がなくなってから一年、青空の会の総会の司会をしたりしました。仕事が忙しくなってきてお手伝いがしばらく出来ない状態でした。二年目から少し落ち着いて、またお手伝いが出来る状態になりました。やはり三回忌と言うのは遺された人にとっての区切りだと思います。あせっても仕方ないので月日、ひにち薬というのか、それが解決することがあると思います。
ヘルパーの仕事は、夫が亡くなってから一週間で復帰しました。ちょっと早すぎたと思うのですが、利用者さんが待っていて下さいますし、今出ないと外に出られなくなるような気がして、復帰しました。
今までずっと歩いてきた道が、夫が急に亡くなり、崖っぷちに立たされたような感じがしました。役所に行って世帯主になり、健康保険は亡くなった次の日から効かないからと会社の人に言って下さいましたが、本当に実感しましたね。全て自分で決めていかないといけない事だらけでした。社宅も三ヶ月で出なくてはならず、家を探したり荷物の整理をしたり・・・。ただ、荷物の整理は思い切って出来たので、これは良いかと思いました。

<引っ越して心機一転>
一つ一つ目の前の事を片付けて行く事で何とかなって行くと思いました。夜寝付けなくて朝目が覚めて、三時間くらいしか寝ていなくて、食事も食べられなくなり、五キロくらい一度にやせました。八月に子供と軽井沢に行き、何とか食べられるようになりました。そこにも、やはり夫は居ないというのが、四人家族になって実感されました。
十月に家が決まり引っ越し、心機一転になりました。十一月から常勤ヘルパーになり、フルタイムの仕事に移りました。次の年の平成十四年の九月から火、木の夜と土曜日の一日、一級の講習を受け始めて、今年三月資格を取りました。そして四月から職場で現場提供責任者をしています。週五日勤務で、朝九時〜夕方六時くらいでそれ以上は夜は出来ないという事でやっています。、体力的なこともありますし、パートのままという状態にして頂いています。 
手芸が好で講師の資格を取っていましたので、カルチャークラブのパッチワークの講師も三箇所で月二回ずつしています。仕事ばかりよりは、いろんな場面があった方が良いかと思い、しています。休みがなくなって忙しすぎる状態です。会社は水曜と日曜がお休み、祝日も出勤という変則的な勤務ですけれど、休みも取れますし、何とか続いています。自分でもちょっと体力的にきついかなと思う事もあるのですが、青空の会も何とか自分で出来る範囲でお手伝いをしたいと思います。

<「元気で明るく何とかなる」というO型>
私が元気でいないといけないので、がん検診はしっかり受けています。子供は長男は二十七歳、次男は二十五歳、それぞれ男の子なので一人暮らしをしていて、今は娘と住んでいます。来年大学卒業で就職も決まっていますので、もう一安心かなというところです。
私の両親は八十三歳と七十六歳で妹と神戸に住んでいますので、娘に「お母さんはお父さんがいるから良い。私は二十歳で亡くなった。」と言われました。可哀想なのですけれど、二年たってお互いにそういう話が出来るようになりました。子供の方が私よりいろいろ考えて、思ったより大人になっていて、時には意見をされたりします。親子が逆転の状態です。小さい時は子育てが大変でしたけども、介護の時、やはり子供がいて良かったと思いました。
私のモットーは、「元気で明るく何とかなる」ということで、O型なので何とかなっていると思います。ただ一人になるといつもあれこれ心配して、平気そうな顔をしているのですが、結構ぐずぐず後悔したりもします。でも前向きにエネルギーを使って行けば何とかなるかなと思い、仕事をしています。青空の会に参加するのもこのような私の心の支えの一つですので、これからもよろしくお願いします。ありがとうございました。        (2003.11.22)

                  

 

「青空の会」会員の方の体験談

がん患者と家族・遺族の会「どんぐりの会」
Copyright(C)2000-2003 dongurinokai.jp All Right Reserved